裏?札幌

【 青春?琴似ゲーセン 】

学生時代、そして就職で東京に出てからもなお、帰省するたび通った地域琴似。
トータルで、10年以上も通っています。
最近、アーケード業界の衰退と共に残念ながら、行く機会が激減しました。
自分の人生におけて、大きな?足跡と記憶の残した場所です。
そんな思い出一杯の場所の変遷と思い出そして、ゲーセンとの関わり、転落(爆)していく過程に
ついて語りたいと思います。

●目覚め〜小学時代〜

小学生の低学年の頃から、子供の可愛らしさを生かして?大人にねだってタダで
インベーダーゲームで遊んであの頃から話は始まります。
当時、当然小遣いは少なかったので、近所のゲーセンでそんな事は出来ませんでした。
(そのゲーセンも中学校の側にあるという事で移転。かなり月日が過ぎた後閉店する。)
その後、普通に、野球や公園で鬼ごっこやある公園にあったトランポリンやターザンロープ等
(当時、新しく出来たばかりで人気があった)で遊ぶ、平凡な日々を過ごしていました。

しかし、その頃も、ある友人の家によく遊びに行き、カセットビジョンで、きこりの与作や
インテレビジョンでスーパーマンを遊んでいました。
当然、当時はやりのゲームウォッチも周りの友人が色々な種類のものを持っていたので、
かなり遊んでいます。色々乱立したLSIゲームでも遊んでいました。
そういえば、新札幌にある青少年科学館に遊びに行くのが好きで、新しいものが出来る度、
遊びに行っていました。その時必ず、グリーンモニターのMZ(機種は不明)に入っていた
ゲームで遊んでいました。
振り返ると、ゲームから完全に離れた生活をする事はありませんでした。

小学6年生の頃に、ある友人からPC8801のゲームとゲーセンの遊びを教わったのが、本当の意味でも
目覚めのような気がします。ちょうどこの頃、親がパソコンを欲していました。
はじめ親は初代PC-9801を買ってきたのですが、ソフトが少ないと無理矢理説得して、初代PC-8801に
変更させました。今から考えてみれば、これでゲームと縁を切る事が出来なくなった気がします。
(そういえば、周りには、PC-6001mk2勢力もあったのですが、リザードを人の家で解いてだけ
あっさりと脱会しました。)

ゲーセンの遊びは、ベーマガのスーパーソフトマガジンに載っていた記事(マッピーやゼビウス)を
見て、「これ、面白そうだね。」と不用意な一言を発したことから始まりました。遊ぶに行こう。
当時、近くにゲーセンは無かったので、大通りの三越の屋上にあったナムコランド(だったかな?)で
遊んでいました。大通りに遊びに行くという事であれば、親も地下鉄代を出してくれました。
ただ、この頃は、琴似に行く事はありませんでした。というより琴似を意識することはありませんでした。
余談ですが、この頃の年賀状やサイン帳を見ると何故か?ちゃっくんやマッピーが描かれています。
まだ、当時ゲーセンは不良の集まりという認識の時代なのに、既にゲーセンで遊んでいるマセタ子供達が
集まっていたのだと、今更のように痛感しています。

●覚醒〜中学時代〜

中学生になり、クラスが13クラスもある学校だったので、小学生の頃の悪友?とは
同じクラスになることは無く、1年間は、夏は外で遊び、冬はスキーをしている時間が多い
健康的な生活をしていました。
この頃、金も時間もなく暇があった時に、ベーマガに載っていたゲームを打込んで遊んでいました。
しかし、2年生の時にクラス変えがありました。ここで、覚醒してしまいました。
そう、琴似に行くようになったのは、中学2年の時でした。
このクラスには、どういう訳か?ゲーセンに行くメンツが集まってしまいました。
しかも、学校で休み時間に、紙麻雀で遊ぶなど、中学生とはとても思えない遊びをした時代でした。
特に、ゲーセンに通ったのは、自分を含めて4人。ゲーセン通いの4天王と言った所でしょうか?
しかも、テストが終わって、クラスの男子の90%以上と女子数名でゲーセンに遊ぶに行ったという
ゲーセン禁止令が出ている当時の常識から考えれば、脅威の参加率です。
結局、悪事は続かず、担任にばれ、大目玉を食ってしまいましたが・・・。(爆)
本来、3年生でクラス替えは無いのですが、ちょうど分校(小学の時には2度経験)するタイミング
だったので、残念ながら他の3人は分校した側に行ってしまいました。
その後、その内1人とは、分校後も高校時代まで、付き合いがありました。
その後も、数年間彼とは琴似で遊ぶ日々が続きました。
そういえば、中3の時は、高校受験の関係で余り遊ぶ機会がありませんでした。

この当時、良く行っていたのは、セガでした。ファンタジーゾーンで遊ぶのが目当てでした。
ここのセガは、試験的にプリベイドカードを買ってゲームを行う方式を取っていました。
結局、流行することなく、歴史の中に埋もれしましたが・・・。
後、ナムコにも良く行っていました。50円で遊ぶことが出来るゲームがあったのが大きかったです。
当然、小遣いも少なかったので、半額で遊べるのは子供にとってかなり大きかったです。
ちなみにここは、ベーマガのチャレンジハイスコア集計対象店でした。(後にゲーメストも)
ハイスコアを争うような技量も財力もなかったので、関係のない世界でしたが・・・。
後、この頃本当にタイトーはあったのだろうか?記憶が曖昧です。全く記憶が残っていません。
須貝ビルに関しては、眼中に入っていなかったので、省略します。
中学時代琴似

●成長〜高校時代〜

高校時代は、休み時間に勉強する気は全くなく、暇潰しに始めた大富豪を結局、ほぼ3年間
やっていた事位しか、印象に残っていません。あの学校が嫌いだった。ただそれだけです。
最初の内は、上で述べた中学生の同級生と中学の頃と同じようなペースで同じ場所を通っていました。
良く1942で遊んでいました。2人で遊びとそれだけで2〜3時間は遊べたので、経済的でした。
しかし、高校が違ったのは正直大きかったです。
いつしか疎遠になり、会う機会も減り、そして気がついたら、会う事も無くなりました。
今では、年賀状のやり取りさえないし、何処に住んでいるかも分かりません。
きっと、お互いに高校での生活に馴染んでしまったのが原因でしょう。
この事には、今でも後悔の念が残ります。

しかし、琴似にはこの頃から頻繁に通うようになりました。というより通学路に琴似がありました。
だから、学校があれば嫌でも毎日琴似に行きました。
そして、高校にも、ゲーセンに行く友人がいました。
「類は友を呼ぶ」。その言葉を身を持って体感した時期でした。
この頃には、中学時代よく通っていたセガは無くなっていました。
代りに「テクノ」というゲーセンが入りました。しかし、行ったのは1〜2回位でした。
ナムコには、中学時代と同様のペースで、同様の目的でたまに遊びに行っていました。
グラディウス2の良く上手いプレイを見学に行きました。

そして、この頃、一番良く遊びに行っていたのは、タイトーでした。
当時、流行っていた3画面筐体のダライアスやニンジャウォーリアーズを友人が遊んでいるのを
良く眺めていました。他に記憶に残っているのは、ボタンを押す強さで技が変わるストリート
ファイターです。波動拳さえ出ればかなり遊べると友人は話していました。
ただ、自分はバイトをする訳でもなく、ただ怠惰に生きていました。
だから、お金をほとんど持ち合わせていなかったので、直ぐ終わってしまうゲームは
ほとんど遊びませんでした。昔から遊んでいたゲームをたまに遊ぶ程度だったので、
ある意味最も保守的な時期だったのかも知れません。
この時期も、須貝ビルに関しては、眼中に入っていなかったので、省略します。(おぃ
高校時代琴似

●停滞〜予備校時代〜

その後、惰性で受けた大学受験に失敗し、某予備校に行くものの環境は良くなかったです。
未だ大学に行くことに意味を見出せていたので、現実逃避として、予備校側にあるゲーセンで
毎日遊び日々を送りました。(爆)
今のような奇麗なゲーセンではなく、昔のゲーセンの雰囲気を残してゲーセンで、煙草の煙が
充満していました。ふと気が付けば、煙草の煙が原因で体調を大きく崩していました。
ある時から、予備校にも行けない状態になりました。そして、その間ロクに勉強していなかったのが、
大きく響いて再び、大学受験に失敗しました。
その結果、親により、専門学校に強制連行されました。(--;
この頃、琴似にはほとんど行きませんでした。
他に行った記憶があるのは、息抜きを兼ねて遊びに行った大通りにある須貝、二番館位なものです。
この頃、一番遊んだのは、「殿様の野望」でした。
何を間違ったのか?問題をほぼ全て覚えた為、全国トップレベルの方々と同様に、調子が良ければ
1コインでカウンターストップまで、遊べるようになりました。
テトリスも、イージモードであれば、カウンターストップまでプレイ出来るようになったのもこの頃でした。
そんな事をしている暇があれば、勉強しろ!という声は今でも聞こえそうですが・・・。(汗)

●絶頂〜専門学校時代〜

ずっとパソコンで遊んでいたのだから(爆)、コンピュータ系の専門学校に行けという親のひと言で、
某情報処理系列に強制連行され、失意の日々を毎日送っていました。
仮面浪人して、1年後に大学入試を受ける!と心に誓い、日々少しずつ勉強する日々を送っていました。
実際に、受験の冬休みに、郵便局で配達のアルバイトを行い、受験料と旅費を稼ぎました。
しかし、実際には大学受験する事はありませんでした。(爆)
専門学校が居心地が良くなってしまいました。(^^;
興味のない5教科を勉強するより、こっちで勉強している方がよっぽど面白いと感じたからです。
実際、情報処理2種を取ってから、ほとんど5教科の勉強をする事が無くなりました。
そんな状態で、受験しても合格する自信はありませんでした。
仮に合格しても、大学でダラダラと遊ぶだけの気がしたし、何かに興味を持って勉強する事は
ないと思いました。
結局、そのアルバイト代は、メガドライブと今でも使っている14インチTVに化けました。(爆)
(これが、サターン、ドリームキャストと一連のセガハードで遊ぶ起点になるとは知らずに・・・。)

この頃、PC-8801も遂に末期を迎えていました。そして、家で遊ぶものが何もない時期でした。
人生で最も家で勉強を真面目していたこの時期、息抜きは、ほぼ毎日自転車で走らせて琴似まで
行っておこなっていました。
ゲーム史上に残る名作「ストリートファイター2」で遊ぶためでした。
間違いなく自分が、最もゲーセンでお金を使ったゲームです。
この頃、このゲームで遊びために、親から昼食代を貰っても昼食を食べない日々を送っていました。
昼は、となり駅のダイエーにある子供向けの小さなゲームコーナーで1ゲーム遊び、空腹と時間を
ごまかしましていました。夜は、琴似のタイトーへ行き、上手い人のプレイを見ながら遊んでいました。

この頃は、毎日タイトーに行っていました。そして、この頃がゲーセンで遊んでいて最も楽しい時期でした。
タイトーのアルバイトには、高校時代の友人がいました。
初めは気が付かなかった同じ専門学校のアルバイトの人もいました。
そして、その辺の関係者を通じて、他のアルバイトの人達とも仲良くなりました。
(その当時の私の印象は「殿様の野望の鬼」だったそうです。1コインで毎回クリアしていたのが原因。)
そんな訳で?、タイトーに毎日通うようになり、SF2で遊ぶようになりました。
最初のうちは、春麗でクリアを目指していました。春麗でクリアすると、他のキャラクターでクリアを
目指すという風に、アルバイトの人達と情報交換しながら、クリアを目指す日々でした。

しかし、ある時からSF2の対戦がメインになりました。
といっても後に流行する対戦台が登場してからではありません。
対戦が始まった頃というのは、遊んでいる人に声を掛けて了解を得てから、遊びというスタイルでした。
当時、何故か?リュウにキャラクター変更していて、必殺技、連続技を次々出してCPU戦を
楽しんでいたので、対戦相手としては、強そうに見えたのかも知れません。
当時、結構を声を掛けられました方だと思います。(この頃、勝率も良かった)
この頃は、見知らぬ人同士でも、互いを尊重し、お互い情報交換しながら良好な関係を維持しながら
対戦していたと思います。今考えると最もほのぼのとした時期だったと思います。

大学受験を断念して、迎えた専門学校2年目。
更に学生生活を謳歌するようになり、ますますゲーセンに行くようになりました。
環境面で大きな変化がありました。口コミで全国に広まっていたSF2の対戦を見知らぬ人と
もっと気楽に遊んでもらう目的で作られた2つ筐体を迎え合わせに作った対戦台です。
これにより、飛躍的にSF2の対戦を行う人口は増えました。
そして、専門学校の近くにF1というゲーセンがオープンしました。
その結果、昼休みはここで過ごす事が多くなりました。
カップラーメンにお湯を入れて食べている同じ専門学校生の姿が風物詩となりました。
この1年が人生の中で最もゲーセンで遊んだ時期です。
この頃になると、流石にアルバイトが終わった後に毎日練習/研究しているアルバイト達とは、
遊んでいる数の差で腕に差が付きました。頭でごまかしてなんとか勝っていましたが、
勝率は、当然5割を切っていました。
それでも、他のゲーセンで戦えば、7〜8割位の勝率で勝てる程度まで腕は上がっていました。

この時期、最も印象に残る常連とアルバイト達で行った非公式のSF2の大会がありました。
今から考えてみれば、かなり個性的なアルバイトと常連だったと思います。
順位は忘れてしまいましたが、確か中位だったと思います。優勝者は当然?アルバイトでした。
間違いなく、全国でもトップクラスの腕を持っていました。
初代SF2だったので、当然ガイル(優勝者も)が圧倒的に強かったです。
メインキャラが、リュウで、サブキャラが春麗で挑んだ割には善戦したとは思っていますが・・・。
この大会には曰く?があって、ガイル使いのガイル(含む優勝者)を全て破ったにも関わらず、
たまたま、使った自分の素人ガイルに負けたのが響いて優勝出来なかったと今でも言われます。
(昔、何故か?相性が良くて、決めに来た瞬間に紙一重で逆転勝利する事が多かった。)
そういえば、同店で公式のSF2の大会が開かれて1度だけ出場していました。
確か、対戦用にリュウを使い始めて3日目位だったので、2回戦であっさり消えました。(涙)
大会といえば、昔ベーマガで連載していたライター同士のSF2の闘いの結果はどうなったの
でしょうか?誰が優勝したんだ!!今でも気になります。

店が閉店するのは午前0時でした。後片付けが終わってから、アルバイト達と常連達で、
それから遊びに行くのは、日常茶飯事でした。
(流石に毎日という事はありませんでしたが・・・。)
自分は、財力の関係で余り参加する事が出来なかったボーリング大会。
たまに参加するも、やり込み数の違いで勝負になりませんでした。
これは、近くにある須貝ビルで行われました。
ここには、閉店後にまだゲームで遊びたい時によく常連と訪れていました。
アルバイトの車に乗せてもらって、新川にあるキャッツアイで、カラオケで
わいわいと盛り上がりました。
また、あるアルバイトの家まで行って朝までゲーム(記憶に残っているのは、らんま1/2の
格闘ゲーム)で遊んで家に帰り、そのまま学校へ直行することもありました。
今考えると、良く体を壊さずに、専門学校に通っていたと思います。
(一応、皆勤賞だが、開始1分前に毎日滑り込み)
とはいうものの、未だに無茶な生活は続いていますが・・・。

この頃、アルバイトと仲が良かったのが、幸いしてかメダルゲームをタダ(爆)で遊んでいました。
(それ以前は、たまに落ちているコインがあれば拾って(痛)、メダルを増やしていた。)
よく、競馬ゲームで遊んでいました。
500枚ものコインがないと自分の座った台の馬が出頭出来ないのに、何故か?4〜5頭まとめて
出頭して遊びといった豪遊をしていました。
この競馬ゲームには、「ナキノリュウ」と馬がいて、出てくると必ず賭けていました。
肝心な時に何故か?勝ってコインを増やしてくれました。良く、「リュウ!!」と叫んでいました。
他のメダルゲームもひと通り遊んだのですが、この経験が、後にフェアリーで彼女とメダルゲームで
まったりと遊ぶのに役立ちました。
タダでこっそり貰った枚数は・・・。言えない位膨大な数だと思います。

他のゲーセンですが、ナムコには、たまに遊びに行っていました。
高校時代からの友人でもあるアルバイトの休憩の時に、息抜きとして遊びに行っていました。
記憶に残っているのは、ワールドテニスで遊んだことです。
50円で結構長く楽しく遊べた記憶が残っています。
後は、ナムコの店員だった某ダルシム使い(数年前まではロッポニカ生息を確認していますが今は?)
の仕事の邪魔?をしに行っていた記憶が残っています。(逆もありなのでお互い様)
ナムコといえば、この当時、後にVF鉄人の1人キャサ夫をいました。(かなり後に話を聞いて知る。)
タイトーにもSF2の対戦に来ていましたが、確かに強かったです。技は完璧でした。
ただ、最強だったかと、そうではなかったという風に認識しています。
(結構、タイトーのアルバイトには、やられていた記憶があります。)

前に述べた通り、専門学校側にあったF1にも昼休み、そして放課後、かなりの頻度で通いました。
しかし、プライベートで通うことは一度もありませんでした。
全ゲーム50円だったのは、非常に魅力的でした。当然?難易度は全般に高めでした。
ここでも、昼休みに遊んでいた別クラスのSF2の常連達といつの間にか仲良くなっていました。
お互いに、無意識の内に意識していた事は、話をして分かりました。
これで、琴似タイトーの常連と、このF1の常連。意味のない2足のわらじを履くことになりました。
そういえば、この常連の内1人は、ゲーメストのSF2全国大会に出場していました。
(運営がずさんらしく、対戦相手に勝ったにも関わらず、何故か?もう一度対戦させられ敗退。
かなり、文句を言っていたのを覚えています。)
その後、就職したからこの地を訪れることはなかったので、会うことはなかったのですが、
もう一度会えたらいいな!と今でも思っています。
後は、二番館、須貝(大通り)、ムーンベース(SF2の練習場2P100円で家から近かった)辺りに
良く出向いていました。
そういえば、気がつけない内に、テクノは何時の間にか?スロット屋に変わっていました。
今考えると、勉強、遊び(ゲーム)そして恋?。この時期、最も充実した日々を送っていた気がします。
専門学校時代琴似

●下降〜帰省時〜

就職を道内ではなく、関東地方にした為、当たり前だが札幌のゲーセンに行く機会は減った。
それでも、GW、盆休み、正月の3大長期休暇?は全て帰省していたので、その時には、
必ず、琴似のゲーセンに遊びに行っていました。
ここでも何故か?入社前の新人歓迎パーティでゲーセンの話題で意気投合してしまいました。
そして、入社と同時に同じ寮に入寮し、近所の小さな雰囲気の悪いゲーセン、新宿、秋葉原、
神保町等のゲーセンを転々とまわり、遊んでいました。
特によく行ったのは、神保町のゲーセンでした。
一時期、極上パロディウスに嵌って、スコア稼ぎを目指しました。
同僚の紹介で、シュータの巣?に行ったのですが、あまりのレベルの高さと人種の違い?を感じ、
あっさり断念してしまいました。(弱)
それでも、ある程度の得点稼ぎをしながら、ノーミスでスペシャルステージをクリア出来るまで
腕は上達しました。
(ちなみに同僚は、全国トップレベルのシューティングの腕を持っていた。特にF/Aは秀逸。)
後は、昼休みに当時嵌っていたゲームがあれば、良く会社の近く(といっても1駅歩きますが)の
ゲーセンまで行って、昼飯そっちのけで、日々鍛錬?に励んでいました。
ちなみに地方に出張中であっても、近くにゲーセンがあれば、スタイルは変わりませんでした。
(流石に近くに民家もないような田舎では無理でしたが・・・。)
ただ、寮の近くのゲーセンには、余り行かなかった気がします。
途中で小奇麗なゲーセンもオープンしたのですが、難易度が高い割に100円だったし、
客層も良くなかったので、自然に足が向かなくなりました。
プライベートでは、渋谷のゲーセンに出向く事が多かった気がします。

帰省すると、生活が学生時代に戻っていました。
時には、重たい荷物を持ったまま、ゲーセンに直行しました。
そのまま、実家に帰らず、朝までカラオケだとか当時のアルバイトの家に遊びに行きました。
その時だけ、専門学校時代と同じ生活リズムでした。
当時、SF2’、SF2ターボ、スーパーSF2Xを中心に遊んでいたと思います。
後、SNKの侍魂、餓狼シリーズも良く遊んでいました。

そして、時は流れ、仕事に追われる日々となり、たまに長期休みが無くなる日々を送るようになりました。
気がつけば、かつてスコア争いコーナーに名を連ねていたナムコは、時代の流れに勝てず、何時の間にか?
ドラックストアになってしまいました。
比較的良く遊びに行っていたゲーセンだっただけに、非常に残念な思いを当時しました。
須貝ビルも、琴似の外れから、JR駅の側に大きく奇麗になって移転しました。
そして、アルゴスというゲーセンが琴似に新たにオープンしました。
一時期隆盛を極めた?タイトーも、当時のアルバイトも店長もいなくなり、全く別の雰囲気を持つ
寂れた店になってしまいました。新しいゲームの入らないメダルゲームが出来る店でした。
何時の間にか?遊びに行く拠点は、タイトーからアルゴスに変わりました。
当時の常連の一部がこのゲーセンを拠点に遊ぶようになったのと、当時のアルバイトが
1人働くようになったのが、原因です。
この頃になると、当時のアルバイトや常連の中に消息不明の人が増えていました。
そして、かなり長い月日が流れているので、新しい拠点アルゴスの常連の顔はほとんど知らない
状態になりました。
そして、自分も、雑誌に書いてある強い技、連携だけを猿のように繰り返すだけの味気ない対戦する人の
増殖に伴い嫌気をさし、格闘の対戦台で遊ぶ事が激減しました。
(その相手を無視出来れば良いのですが、勝手に100円入れて簡単に乱入出来るシステムだった。)
仕事が当時忙しくて、VF2の波に乗れなかったのも大きい気がします。
帰省時琴似

●終焉〜現在〜

会社を辞めた元同僚と何故か?琴似のゲーセンで遊び機会がありました。
しかし、入社当時の1日で数千円使って遊ぶパワーはありました。
私が、新製品だったミスタードリラーを数回遊んだ程度でした。
「お互い本当に遊ばなくなったね。」 心に残る言葉でした。
当時、音ゲー(ビートマニアやDDR)が全盛の時代でした。
しかし、本当に古くからゲーセンで遊んでいる人間から見れば、100円を入れて遊び気が起こるゲームが
無くなってしまった。その事実を感じずにいられませんでした。
そして、2001年6月(推定)に、一番良く行っていたタイトー琴似店が、居酒屋に変わりました。
確かに、京セラがタイトーの北海道撤退を発表していたし、ゲーセン不況は深刻化していました。
色々な思い出が詰まった店が閉店するというのはやはり悲しい事です。
3大メーカーの直営店であったセガ、ナムコ、タイトー。最初からあった店は全て全滅しました。
テクノ、ムーンベース、フェアリー、F1、バンデット、二番館、ナムコランド・・・等
自分が学生時代に遊びにいった店はかなりの数閉店しました。
残るアルゴスも、店舗の一部のスペースをセブンイレブンに改築し、奥が見えない作りになり、
非常に入り難い雰囲気になってしまいました。
そういえば、ハイスコア集計をしていたゲーメストは廃刊に追い込まれ(その後、別雑誌になったが
読んだことなし)、ベーマガも廃刊したような雰囲気になってしまいました。
自分1人でゲーセンに行ったのはいつ以来だろうか?寮から出て1年間住んだ地域では、
近くのゲーセンに1度も行きませんでした。
たまに付き合い?でゲーセンに行っても釣り人(UFOキャッチャー)をしています。
今後、復活があるか?非常に厳しい状況にあると思います。過去の思い出になってしまうのか?
よく琴似で食べたみよしのぎょうざの味を思い出しながら今思います。
現在の琴似

追伸:
良く考えてみれば、10年周期に大きく転落している人生送っている事実に気が付いてしまった。
次は40歳の時か・・・。


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